【 痙攣性発声障害という名の病との闘い 】




【 痙攣性発声障害という名の病との闘い 】 

   

【 声に違和感を感じはじめて 】……………………………………………………………………

 今考えればその予兆的なものは、音楽教師を目指していた昭和55年頃にはあったように思います。当時職場である学校の音楽室でよく練習をしていました。歌う時に何か違和感のようなものをずっと感じていたのを今でもよく覚えています。しかし、全く歌えないというほどではなく、通常の歌のレッスンを受けることができていましたし、演奏会にも行くこともまだ出来ていました。
 歌う際の発声に違和感を感じ始めて、東京の米山文明先生(現在発声学会の理事長をされています)の所に通院したり、他のいくつかの病院にも行くようになりました。歌の素質はなくても歌いたいという思いは強く、30歳で結婚するまでは授業の傍ら東京にレッスンにも通い、地元静岡県の演奏家協会にも入り、歌える機会があれば積極的に出させていただけるように準備をしていました。
 そのような音楽活動をしている中、クリスマスコンサートでソロを担当しなくてはいけない時があり、その練習をしている最中に、急に喉に力が入らなくなって、歌おうとしてもある高さから声を出せず歌えなくなってきました。自分に何が起こっているのかわからない…、それは突然の事でした。年号が昭和から平成に変わる頃だったと思います。


【 症状の進行 】……………………………………………………………………………………

以前から通っていた病院へも再び行き喉を診て頂きました。しかし「声帯が炎症を起こしている」という以外には何もわかりませんでした。転勤で受け持ちの職場の学校が変わる中、声の調子は今度は普通の会話にまで浸潤してきました。授業でも歌えなくなってきたのです。これが平成2年ごろだったと思います。担任も持ちましたし全校の歌唱指導もありました。本当の意味でのSDの症状はこの頃からだと思います。歌う時はもちろん、人の前に立つと余計に緊張し声も出なくなってきました。(SDは緊張すると声がさらに出にくくなるのも特徴です)歌う時も緊張すると声帯がほとんど振動しなくなってしまい、「ガラガラ声」になってしまいました。さらに悪いことに、吹奏楽の事務局長の仕事の話が舞い込んだり、県教育委員会への勤務も決まったりと会議がメインといった人前で喋らないといけない事が増えてきて、声の症状がさらに悪くなってきたと感じたのもその頃です。会議の度に声がかすれてしまい、自分自身で声のコントロールが出来ない状態になっていきました。最悪の時は会議の壇上で「すみません、声が出ません」と言ったこともあります。会議の度に毎回毎回もう必死でしたし、精神的にも自己否定の極みという状態の日々が続いていました。
 「声楽家として歌いたいのに何故私の声を奪うのか!?命までは無理だけど、両足を差し出して声が元に戻るものなら何とか治してください…。」と何度祈ったことか…。当時それしか自分に出来ることはなかったのです。東洋医学的な治療(針治療・気功)を受けたり、今考えれば恥ずかしい話ですが、催眠療法や除霊の祈祷を受けたりと本当に様々なことをしてきました。でも症状が良くなることもなく、苦しい月日が過ぎていき、そのころ家族にも相当な迷惑をかけていたと思います。


【 地獄の日々からの脱出 】………………………………………………………………………

「もっとしっかりと診て頂ける医療機関はないだろうか?」…と、当時東京大学附属病院の耳鼻咽喉科音声外来に行き、熊田政信先生(現在クマダクリニック院長をされています)との出会いがきっかけで、
「これは痙攣性発声障害という病気です」と初めて病名が告げられました。その時「やっとわかった!」と涙がこぼれ出たのを今でもよく覚えています。声の調子がおかしくなってから5年は経っていました。「もっと早く診断されていれば…」と今でも悔やまれます。私と同じように大変苦しく辛い思いをされている方が他にも大勢いらっしゃり、現在でも病名が下されず医療機関を転々とされている方がいると思うと、いてもたってもいられない気持ちでいっぱいになります。


【 SDの会(患者会)設立の経緯 】……………………………………………………………

 SDと診断を受けた後の私の治療は精神安定剤系の薬を飲むことでした。あるとき熊田先生から、「注射治療で症状が好転するかもしれない」と注射治療をある医療機関で受け始め、小林先生がいらっしゃる帝京大学付属病院へその治療が移った頃、私と同じ症状の方が多くいるのを知り、何のつながりもなくお互いにお話も聞けない状態でしたので「何とかできないか?」と、当時数名の方々とこの患者会を設立することを決めた次第です。「同じ悩みを抱えた患者同士が支えあい、交流できる場が欲しい…」それが患者会設立の一番の目的でした。インターネットやメール・携帯電話の普及率もまださほど高くない1999年の頃でした。患者会の設立の経緯の内容は当時の新聞にも掲載して頂きました。


【 設立当時の患者会の活動 】…………………………………………………………………

 言語聴覚士のY.Nさんという方が小林先生の下で働かれていて、Y.Nさんご自身もSD患者の一人で私達に心強いアドバイスをして下さったり、会の中心となっていろいろと動いて下さっていました。
全国の耳鼻咽喉科をはじめ関係医療機関へ病名認知のためにパンフレットを作成しようという話がもちあがり、大和証券福祉財団に製作費や発送費用などに当てるための助成金の申請を行いました。また、交流会を関東を中心に各地方都市でも何度か開催したり、SDに関わって頂いている大学病院等で手術の治療を行って下さっている諸先生方にもお越し頂き講演会の開催を行ったりと、あまり大きな活動はできていませんでしたが、地道に活動をしていました。


【 現在の国内におけるSDの治療法 】…………………………………………………………

治療の方法は、主に以下のとおりです。 

   @ 言語聴覚士・ボイストレーナーによる言語療法(音声リハビリ)
   A ボトックスの声帯筋への注射治療
   B 手術 

これらはそれぞれメリットとデメリットがあります。また患者一人ひとりの

   @ 症状の程度<重度←→軽度>
   A 生活上での声の重要度
   B 経済的な面
   C 受けられる医療機関までの距離やその人の体力や気力


など、人それぞれ置かれている生活環境が異なりますので、診断後の治療は個人で選択し自分に合った治療をしているというのが現状のようです。

 私の場合は音楽教師という職業柄、声が出せないブランクがあっては困まりますので注射治療を選択しています。手術も考えましたが、現時点では手術で発症前までの声質に戻る(治る)という確証は残念ながら今のところありませんから、注射治療が今の私に合った一番の治療法だと思って受けています。実際に施注を受けた経験のある方はよくご存知だと思いますが、単に注射といっても喉の外皮から針を挿入し、ターゲットとなる筋へピンポイントで薬を注入させるわけですから、施注をして下さる先生には熟練された相当の技術が必要になってくると思います。またピンポイントに確実に針の先端が届いているかどうかを確認するために特殊な注射針と筋電計が必要になりますが、微弱な電流を捕らえるために周囲からの電磁波ノイズを遮蔽する特別な設備も必要になってきます。昔はうまく薬が入らないという事もたまにはありましたが、最近は少なくなってきたように思います。注射を打っていただけるのは、当時小林先生と熊田先生しかいらっしゃらなかったと思います。最近ではその他の医療機関の先生方でも行って下さっていると耳にしております。本当にありがたいことです。しかし、注射治療を希望される患者数に対して施注可能な先生方が少なく、患者の増加に対して先生方が追いついていない状況に、なんとかしなくてはと焦っているところです。

 現在私は、クマダクリニックへ行って注射治療を受けています。2ヶ月に一度で、一回の治療に約3万円程度かかります。これは交通費とあわせると年間30万円ぐらいかかっていると思います。これは大きな負担です。しかし、会合の場やお電話などで私の声を聞いたことのある方は私がSDだとわからなかった人も多いのではないでしょうか。それほど正確な微量の薬のコントロールとピンポイントの正確さで行って頂いています。このような高度な技術は日本では現在熊田先生しかできないと思います。そうしたことができる治療環境になってきたことは、生活の質(
QOL)のUPになり、また日常生活に自信が戻ってきたことは、私にとっては大きな喜びです。


【 これまでを振り返って 】…………………………………………………………………

私が音楽を本格的に始めたのは高校3年生からで、実家の静岡から一人で東京に出て寮生活や下宿生活をして過ごしていました。歌を勉強したのも本格的には大学へ入ってからです。いい歌の先生とめぐり合うことができ幸せでした。歌う事が自分の存在の証明にもなっていきました。大学ではベートヴェンの第9交響曲のソリストをしたこともあります。そんなに実力があったわけではありません。声楽家になるなどということは考えもしませんでした。父や祖父も音楽の教師でしたので、教師になることは大学に入る頃から考えていました。そして教師になったその後は前記にあるとおりです。また、教育委員会に入るということは何を意味するのかは自分にもわかっていましたが、こんな病気を抱えて管理職が勤まるのは無理だと思っていました。教育委員会には7年間勤めました。この頃から私の人生の転換期になっていたと思います。当時私にとっては大きな決断でしたが、自ら特別支援学校へ赴任を決意し、障がいを持った子供達と一緒に生活をしたこと…、それは今でも後悔はありませんし、私にとってSDにならなかったら経験しなかったことでしょう。自分の思い描いていた道と少し外れていたことはあったと思いますが、これが人生かなと自分自身に言い聞かせています。

 この障がいを患いもう20年以上です。生涯つきあっていく事になると思いますが、今は職場で吹奏楽や合唱の指導もでき、かわいい生徒達にも恵まれ本当に幸せだと感じています。
 仕事は朝が早く帰宅も夜11時ごろで、土日も部活動の顧問として時間を取られますが、
自分にはこのような日々を過ごせること自体幸せで感謝しています。


【 私のこれからの夢 】………………………………………………………………………

 まだまだ夢はあります。もう一度声楽家として本格的に歌えるようになりたいということです。注射など打たなくても昔のように声が出せる自分に戻れば今まで諦めていた多くのやりたい事がどんなにかできるだろうかと思います。声の響き、声量のコントロール…。授業で歌う程度は可能ですが、声楽家としての本格的な歌となると現状では無理です。
手術のさらなる進展や他の新しい治療法などが開発され、SD患者が声に悩むことなく生き生きとした毎日が過ごせるようになる日が一日でも早く訪れることを願ってやみません。
まだまだ道のりは長いものになると思いますが、皆さんも希望を捨てず、前向きにがんばりましょう!


 平成231110日     .

静岡県  佐 藤 真 澄     


※ 当会ではプライバシー保護の面からホームページ上では患者ご本人のお名前は基本的に公表しておりませんが、

  筆者ご本人の了承の上掲載させて頂きました。



2011-11-10